ごあいさつ

この度は、竹平楼のWebサイトにお越し頂き有難うございます。
中山道の宿場として栄えたこの地にて永きにわたり商売をさせていただき、現在に至っております。当時は、旅籠として営みをしておりましたが明治11年に、民情視察のため明治天皇が当家にお立ち寄りになりました。3代目の当主がお迎えさせていただき、その事を忘れないために「子々孫々までまつりごとを」伝え聞いております。約260年の歳月を経ておりますが、代々の当主が時代にあった商売をして頑張ってきております。長く続けることのむつかしさを、感じながら、のれんを守り、信用を傷つけないようにお客様に安心していただけるよう心がけております。
時代の変化は早く、私は環境や衛生管理に気をつけて継承しております、自ら調理場にも立ち包丁を持って日々精進しております。座敷と御座所も国の文化財に登録されており、日本の文化を伝えることも大切な役目ではないかと思っております。いろいろな調度品も時代を表す物として展示し、食事だけでなく文化に触れていただきたく、ぜひご来店をお待ちしております。

有限会社 竹平楼
代表取締役 西村正司

会社概要

商号有限会社 竹平楼
代表取締役西村 正司〔Nishimura Syouji〕
所在地滋賀県愛知郡愛荘町愛知川1608
TEL0749-42-4007
FAX
0749-42-4008
資本金3,000,000円
創業宝暦8年(1758年)
取引銀行滋賀銀行・関西みらい銀行・滋賀中央信用金庫・ゆうちょ銀行・東びわこ農業協同組合

沿革

1758年(宝暦8年)初代 平八が「竹の子屋」の屋号で旅籠を営む
1878年(明治11年)三代目の折に、明治天皇が民情視察の為御小休所として
ご利用いただく。その時に侍従長の岩倉具視、大隈重信、
井上馨、山岡鉄舟などもお供としてお越しになる。
1912年(明治45年)御幸会の結成
大正初期頃屋号を「竹の子屋」から「竹平楼」と改める
四代目女将において、当家名物「鯉のあめ煮」を考案する
2000年(平成12年)玉座と大広間を国の登録有形文化財に指定頂く

竹平楼の歴史

竹平楼の歴史

竹平楼は江戸時代から続く老舗の料理旅館です。
創業は宝暦八年、初代平八が「竹の子屋」の屋号で旅籠を営んだことに始まります。
明治十一年、三代目の平八の時に明治天皇が、民情視察のため北陸東山道をご巡幸なされ、当家にお立ち寄りになりました。その時に侍従長の岩倉具視をはじめ大隈重信、井上馨、山岡鉄舟など明治を築いた重鎮の方々もお伴でお越しになったと伝え聞いております。現在もその当時の建物を大切に保存させて頂いております。四代目平八の時に、「竹の子屋」の屋号から「竹」と平八から「平」をとり「竹平楼」と改めて現在七代目が受け継ぎ260年の永きにわたり地域の皆様にご愛顧を頂いております。
また現在、大変ご好評を得ております「鯉のあめ煮」は四代目の女将が考案したものであり、代々当家の名物として受け継がれており、皆様に大変喜ばれております。

明治天皇御座所

明治天皇御座所

竹平楼御在所は明治11年の天皇巡幸の際に新築され、明治44年に広間が建てられた際に今の位置に曳家(ひきいえ)されたもので、木造平屋建、瓦葺、建築面積64平方メートルとなっています。間取りは手前から6畳2室と床構えを設けた8畳の座敷が並び、庭側はL字型に縁を廻します。屋根は入母屋造、桟瓦葺、外壁は白漆喰塗の大壁としており、材料、意匠とも質の高い数奇屋風の書院造になっています。明治天皇に2度お立ち寄りいただいたのは3代目平八のときでした。
さて当家へお立ち寄りになった明治天皇は前庭(せんざい)の大盥(おおたらい)に生けた、鯉・鮒・鰉などの湖魚をサデ(小網)ですくって興じられ床の間に飾っておりました投入れの栗の実をお持ち帰りになったとか・・・。

登録有形文化財

登録有形文化財

平成12年、当館の「御座所」と「広間」が貴重な国民的財産として文化庁より国の登録有形文化財に登録されました。

庭のうつろい

お庭

近江ゆかりの才人小堀遠州の流れをくんだ庭園は江戸後期に作庭され、その後代々当主が手を加え拡げてまいりました。大広間の南東、離れ座敷の北東にある2つの庭園はいずれも趣があるとご好評をいただいております。湖国百選の庭としても紹介されました。
植栽豊かな庭園を眺めながらお食事ご談義をお楽しみ下さい。

御幸会

御幸会

明治45年に至り、郡内唯一のこの聖蹟を大切にし明治天皇の御聖徳を顕彰するため、行幸記念祭を郡内あげてのお祭りにしようと、時の郡長今井兼寛氏の発議により愛知郡会で決議がなされ、愛知郡御幸会が組織されました。
同会には町村長、教育関係者 等多くの方が参加され第一回行幸記念祭を十月十二日に執り行うことになりました。ころが準備中、はからずも七月三十日、明治天皇崩御のため、行幸記念祭は第一回から追悼祭となった次第であります。以後、毎年の参列者より抽選を以って二名の桃山御陵代参者を選び、参拝せしめることとなり、第二次大戦まで続きました。昭和二十一年、米軍司令官の命により、官史は素より公職者は神事に参列できなくなったため止むなく一時中絶となりましたが、昭和三十一年に至り、近江神宮々司平田貫一氏の助言により復活丁度其の間十年を除き今日まで継続して居ります。